お江戸を拝見!

国立科学博物館

 こちらは東京都台東区、上野公園にある、国立科学博物館。2006年、「新館」の名称から新名称に変更された「地球館」の2階、『科学技術の歩み』のフロア内に、「江戸時代の科学技術」のコーナーがある。江戸時代のからくり、天文や測量、鉱業、博物学、算術など、当時の科学技術に関する貴重な展示品が並んでいる。このページでは、「江戸時代の医学」を中心に、ちょっと拝見!
「国立科学博物館」のホームページは こちら


■鍼灸用道具
 鍼、灸は古くに中国から伝わったもので、大宝律令(701年)にも制度として記されている。これらが庶民にとって身近な治療法になったのは、江戸時代だった。 鍼は日本独自の打鍼や管鍼が考案されて盛んになり、幕府も検校という地位を与えて保護した。灸は当初は鍼と対で用いられたものだったが、江戸時代には健康法として灸だけを背中や手足のツボにすえることも行われ、普及した。
(江戸時代・和田コレクション)。


銅人
 江戸時代中期に作られた鍼灸の学習のための経絡人形。十四経絡とツボが記入されている。経絡人形は中国の銅人形を起源としている。
 銅人形には、経絡やツボが刻まれ、ツボに鍼が的中すると水銀が出る装置がつく。日本へは室町時代に伝わった記録が残るが、江戸初期の鍼治療の普及に伴い、日本独自の経絡人形が作られ、一般の医家で広く用いられていた。
(江戸時代末期・和田コレクション)


■薬箱
 江戸時代の医師にとって、往診は通常行われる医療行為だった。薬は、医者が薬種商から生薬(しょうやく=植物や動物などを用いた薬)を買い、自身で調合した。そのため、たくさんの引き出しのついた百味箪笥(ひゃくみだんす)に生薬を入れ、保管していた。
 往診には、この百味箪笥の生薬を紙袋などに小分けし、薬箱に入れて持ち運び、患者に合わせてその場で調合した。
(江戸時代末期・和田コレクション)


■木骨(もっこつ)
 木骨は、整骨医が勉学のために工人に命じて人骨を忠実に模して作らせたもの。江戸時代に9体作られた記録があるが、現存するのは4体。木骨には整骨医星野良悦と、同じく各務(かがみ)文献の2系統が存在するが、奥田木骨は各務文献の弟子、奥田万里が、文政2年(1819年)に大坂の工人に作らせたもので、これを作るのに20か月余を要した。
(文政2年(1819年)・奥田万里作)


■華岡流外科道具
 華岡青洲(1760-1835年)は、紀州に生まれ、京都で整骨術や実証的な古方派漢方医術を学んだ後、オランダ医術も学び、天明5年(1785年)に地元にかえり開業した。その医術は、漢・蘭両方の長所を折衷したものだった。
 特に蘭方の得意とした臨床外科に、整骨医ら漢方が得意とした麻酔薬調合術を組み合わせ、文化元年(1804年)に世界初の全身麻酔の手術に成功した。
 外科手術の道具も自ら工夫を凝らし、腫瘍を周囲から切断しやすいように深く差し込める独自のメスも考案した。
(和田コレクション)



■『ターヘル・アナトミア』(左)と『解体新書』(右) (共に複製)
 明和8年(1771年)、小浜藩医杉田玄白や中津藩医前野良沢らが、江戸千住小塚原の刑場で死体解剖を実見した。その際携えていた、ドイツの解剖書をオランダ語訳した『ターヘル・アナトミア』の正確さに感動し、翻訳を決意した。そして安永3年(1774年)、本文4巻、付図1巻の『解体新書』を刊行。『解体新書』は日本最初の本格的な蘭書翻訳書であり、この出版を契機に蘭学が興るなど、医学だけでなく、日本の近代文明の西洋化に多大な影響を与えた本だった。



■種痘用具(左)と疱瘡相済證(ほうそうあいすみのしょう)(右)
 種痘とは、疱瘡(ほうそう、=天然痘)の感染を予防するために、痘苗(とうびょう、=痘瘡(とうそう)ワクチン)を人体に接種し、免疫を得させること。疱瘡は幼児の死亡率が高く、当時とても恐れられた伝染病だった。牛痘種を用いた種痘「牛痘種法」は、イギリス人医師ジェンナーが1796年に発明した。その後日本にも伝わり、嘉永2年(1849年)、佐賀藩医楢林宗建が自子への接種に成功した。幕府は安政5年(1858年)に神田お玉ヶ池に種痘所を開設、公認し、種痘は全国に広まった。
 写真・左は種痘に用いる道具。ガラスなどの容器に牛痘苗を入れて保管、持ち運び、種痘時にはガラス板の上に牛痘苗を出し、種痘メスで腕などを切り、牛痘苗を植え付けた。写真・右は種痘所が発行した、種痘を受けたことを証明する證書。
(種痘用具:和田コレクション、疱瘡相済證:個人蔵)



「江戸時代の医学」以外の展示

■『大和本草(やまとほんぞう)』
 奈良時代に中国から伝わった本草学は、江戸時代初期にはまだ医学、薬物の知識として考えられていた。
 宝永6年(1709年)から刊行された『大和本草』は、1362種類の動物、植物、鉱物を取り上げ、諸品図には300点あまりの図を見ることができる。日本の本草学が独自の一歩を踏み出す画期的な書物といえるもので、博物学的な色彩が濃く、江戸博物学の先駆けとして歴史的価値が高い。
(宝永6年(1709年)〜正徳5年(1715年)刊、貝原益軒 ほか著)


■エレキテル
 安永5年(1776年)頃、平賀源内製の摩擦起電機。日本で始めて製作された電気の機械。ガラスの円筒と金箔を貼った枕が擦れる事によって、静電気を発生させる。
 エレキテルは、身体から過剰な「火」を取りバランスを整え、体調を良くすると考えられたが、もっぱら見世物として人気を博した。明和7年(1770年)に源内が2回目の長崎遊学をした際、長崎の通詩から壊れたエレキテルを譲り受け、復元に成功した。
(レプリカ ※オリジナルは逓信総合博物館蔵、重要文化財)



■伊能忠敬使用の量程車(左)と中型象限儀(右)
 日本最初の実測地図『大日本沿海輿地全図』を作成した伊能忠敬が、全国を測量して回る際に使用した。
 量程車は、綱で引いて歩くと、動輪と連動する歯車機構が回転し、歩いた距離を表示する機械。
 測量には、天体の観測も行われた。象限儀は天体の高度を測る道具。
(共に複製 ※原資料は伊能忠敬記念館所蔵)


■万年時計(万年自鳴鐘)
 江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した田中久重による、和時計の最高傑作。不定時法に合わせた割駒式文字盤などの各種表示や、太陽や月が自動運行する天象儀が備えられ、日本独自の創意工夫が随所に見られる。また、当時の職人らにより、意匠的にも美術工芸的にも優れたものとなっている。
(重要文化財、嘉永4年(1851年)田中儀右衛門久重製作  寄託者:(株)東芝)


取材協力=国立科学博物館