解説 お江戸の科学

西洋医学の輸入と浸透

 18世紀後半に『解体新書』が出版されるまでは、漢方服薬による内科治療が主だった。西洋医学の特色の手術器具を使う外科治療は日本人を驚かせたが、細菌学が発達する19世紀後半まで、病気の知識や治療結果には大差がなかったのではないかといわれている。しかし、江戸後期に人体の構造に目覚めた医師たちは、東洋医学に西洋医学の実証主義を取り入れて行く。

■山脇東洋 (1705〜1762)  朝廷の侍医だった東洋は、古来から伝わる中国の身体観「五臓六腑」説に疑問を抱いていた。宝暦4年(1754)のある日、死刑囚の腑分け(解剖)に立会い、この観察に基づいて、宝暦9年(1759)に日本初の人体解剖書『蔵志』を発刊、解剖図4葉を掲載した。これから、日本の医学は人体の構造に着目し始める。安永元年(1772)には、古河藩医河口信任が解剖書『解屍編』を刊行した。 『蔵志』より ■杉田玄白 (1733〜1817)  やはり中国の医学書を見て、東洋人と西洋人の人体構造の記述の違いに疑問を抱いていた、小浜藩医杉田玄白と中津藩医前野良沢も、明和8年(1771)小塚原での解剖に立会い、現場でオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』に描かれた解剖図を実物と照らし合わせてみて、その記述の正確さに驚かされた。西洋の実証主義に啓発された玄白らは、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意。苦労のすえ、足掛け4年の歳月をかけ安永3年(1774)に翻訳本『解体新書』5巻を刊行し、医学界に大きな影響を与えた。文政9年(1826)には、玄白の弟子大槻玄沢が、改訂版『重訂解体新書』13巻を刊行した。 ■前野良沢 (1723〜1803) 『解体新書』より ■華岡青洲 (1760〜1835)  漢方とオランダ外科学を学んだ紀伊の華岡青洲は、文化元年(1804年)麻酔による外科手術を決意、世界初の全身麻酔による乳癌摘出手術に成功した。青洲は、通仙散と呼ばれる6種類の生薬からなる独自の経口麻酔剤を開発し、これを使用。東洋医学と西洋医学を融合させ、独創的な業績を残した。文政6年(1823)に医師シーボルトが来日し、新しい西洋医学が伝えられると、医学はさらに発展していく。