TOP > コラム > 生徒ファーストで社会に開かれた中学・高校の「実学」改革へ~ 塩川達大

塩川達大

第2回・「ごちゃまぜ」の学び

令和元年6月21日の政府の閣議決定「まち・ひと・しごと創生基本方針2019」では、誰もが居場所と役割を持ち、つながりを持って支え合うコミュニティ「全世代・全員活躍まちづくり」の実現を目指し、…(中略)…年齢や障害の有無等を問わず誰もが交流できる地域共生型による多世代交流の場づくりやコミュニティとの関係も視野に入れた住まいの場づくりなどにより、制度の縦割りを超え、「『ごちゃまぜ』のコミュニティ」の推進が掲げられております。この「ごちゃまぜ」という言葉、ソーシャルインクルージョン、社会的包摂の視点から着目されておりますが、今回は学校教育の観点から考えてみたいと思います。

学校教育のシステムはごちゃまぜの対極?

中学校から高等学校、さらには大学等の高等教育機関に進学するにつれて、学校という世界はともすると、ごちゃまぜの対極、高い同質性がある場となりやすい傾向が(未だに)あると思います。

例えば、地域の公立中学校では障害のある生徒も同じ学校で学んでいたのに、入試という5教科の輪切りを経て高校進学するとそうした友達とは疎遠になる。それどころか、障害がある同世代の人の生活がイメージしづらくなる。このような乖離が年を重ねるとともに大きくなり、遠い世界の人のような感覚が増していく。こんな経験を持っている方は若い人も含めて少なくないと思われます。

現在は、生成AIが社会を大きく変えるSoceity5.0時代であり、グローバルとローカルも融合する多様性の時代です。様々な人種や宗教の方がごちゃまぜに生活する社会が現実となっているのに、その感じから逆行するような学校教育のシステムでは、とても現実の社会課題を背景としたauthentic learning、すなわち実学からは程遠くなるばかりではないでしょうか。

というような批判的視座を乗り越えるためにも、今の時代、大人が学んでいた過去以上に、もっともっと学校の中の教育に留まることなく、地域との連携や幼小中高特大の学校間接続、あるいは高校では普通科と商業・工業・農業科等との連携・融合を進めて、社会での学びを加速的に進めていかないといけない、それが大人の責務ではないでしょうか。

部活動に「ごちゃまぜ」を

さて、ここで少し部活動のことに触れたいと思います。コロナ禍がひと段落した中、部活動についても色々な意見が出ています。コロナ禍の中では学校体育大会が無くなったことへの意見が多かったところ、コロナ禍も終わり、酷暑の中、全中やインターハイ、甲子園などの在り方についても様々な意見が出ています。特に、少子化の中、部活動が成り立つのかという見解がありますが、その一つの解決策が「ごちゃまぜ」の発想なのではないかと思うのです。

部活動が「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」(中学校学習指導要領)ものとして、すなわち、生徒の主体的な学びの場としての役割を今後とも期待するならば、同じ中学校の生徒に限定して同じ競技等をするよりも、場合によっては地域のシニアの方と一緒にシーズンによってさまざまなスポーツ・文化活動をしたほうが良いのではないか、そのようにも考えられないでしょうか。

子供の未来の社会はさらに「ごちゃまぜ」。さらに深化すると思います。こうした深化する「ごちゃまぜ」の社会背景を踏まえた学びの環境を進化させることが「ごちゃまぜ」社会を生きていく子供にとって望ましい。だからこその学校自前主義から社会に開かれたごちゃまぜの世界とつながる学びが求められるのであり、それは部活動でも同様、そのように思うのです。

「ごちゃまぜ」のまちづくりを推進している一般社団法人生涯活躍のまち推進協議会発行の「生涯活躍のまち(→別サイトへ)」第37号に伊藤明子前消費者庁長官の記事が掲載されております。

「本当の多様性とは何か」ということで「DEI(Diversity=多様性、Equity=公平性、Inclusion=包括性)のうち、Diversityでは女性活躍と国際化に焦点が当てられがちです。女性活躍について、たとえば大学進学率をみると、全国における男女のそれはほぼ同じですが、地域別になると、東京都の女性の進学率が70%であるのに対して、鹿児島県のそれは半分になっています。鹿児島県が東京都に比べて低いのは、近くに大学がない、大学を卒業しても働くところがない、経済的負担が大きいなどの理由が考えられるでしょう。東京と地方では女性の非正規雇用の比率も違い、東京は正規採用の割合が高いから人が集中する。国内でもこれだけの違いがあることは理解されているのでしょうか。

その壁になっているもののひとつがアンコンシャス・バイアス(unconscious bias)、「無意識の偏ったものの見方」です。「女の子なのでランドセルの色は赤」とか、「女性は理系に弱い」とか。それによってガラスシーリング=ガラスの天井で覆われる。女性たちがそう言われ続けることでつくられる「ガラスの天井」を破るための議論をしていく必要もあるでしょう。

“WeThe15”という、スポーツ、人権、政策、コミュニケーション、ビジネス、芸術、エンターテインメントといった分野の国際組織が結集し、発足したグローバルムーブメントがあります。世界の人口の15%、すなわち12億人には障害がある。つまり、障害のある人は特別な存在ではなく、インクルーシブな社会の一員なのだという考え方を広める運動です。

ただし、人を抱き込むためには強くなければなりません。

多様性を進めれば、トラブルも増えます。これまでの社会はそれを回避するために、組織を縦割りにしてきました。私はよく「シャッターガラガラ」と呼ぶのですが、役所に何かの問題が持ち込まれた際に、「それは私たちの所管ではありません」とシャッターを下ろしてしまう。いったん受け止めてから「できません」というよりも楽だからです。しかし、いまその場で自分の役に立たなくても、後々になって「ああ、そういうことか」と思うこともある。それが人としての土壌を豊かにするのであるから、水は深いところから汲んだ方がいい。そう思って、役所にいるときから、なるべくシャッターを下ろさないように気をつけていました。

なぜDEIについて話したかというと、SDGsの理念である「誰一人取り残さない」に、強さをもっている側が弱い側に何かをしてあげるというニュアンスを感じるからです。むしろ「お互い取り残されないよう気にかけよう」ではないか。

ごちゃまぜは、誰が上で誰が下でということはない、フラットでいるための手法だと思います。「ごちゃまぜにすれば、何かが生まれるだろ」と。それがいいと思います。

最後の一文、「ごちゃまぜにすれば、何かが生まれるだろ」私はこの点に深く首肯します。

 大学で仕事をしていると、イノベーションの揺籃は文理のみならず無数の融合によるある種の化学反応、その連続と感じております。だからこそ大学でも「融合・ごちゃまぜ」を加速化していくことが大事と考えております。

そしてこの点は初等中等教育でも同様と思います。「ごちゃまぜ」の社会背景を骨格にしたカリキュラムの実施の観点からは学校自前主義の脱却が大事。そしてこの考えは部活動でも同様です。地域の高齢者と一緒にボールゲームを楽しむことは授業と往還することでより一層生徒の主体的な学びにつながるのではないでしょうか。

伊藤さんの言葉を中学校や高等学校の教育の言葉に少しアレンジすると、「ごちゃまぜにすることでこそ、ひとりひとりの人生航海の羅針盤の素地ができる。そして、ごちゃまぜにすればするほどしっかりしていく」皆さん、どうお考えでしょうか。

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塩川達大(しおかわ たつひろ)
高橋 良祐

京都大学経済学部卒業、ロンドン大学ユニバーシティカレッジロンドン修士(公共政策)

1996年文部省(当時)入省、文部科学省、岐阜県教育委員会、内閣官房(地方創生担当)等の勤務を経て、2017年スポーツ庁学校体育室長(部活動改革担当)、2019年初等中等教育局参事官(高等学校担当)、2021年高等教育局専門教育課長

2023年7月より現在、国立大学法人金沢大学理事・副学長