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小学生白書Web版 2011年6月調査>分析編>

第1章 東日本大震災発生時の下校の全体的な傾向とその後の変化

遠藤宏美(宮崎大学特任助教)

おわりに

 本章では、東日本大震災発生当時の下校の全体的な傾向とその後の生き方・考え方の変化を、単純集計結果を中心に概観した。平日午後に東日本を襲った地震ははからずも、子どもたちが学校にいる時間に災害が起こった場合の学校や教師の対応を再考させることとなった。教師たちの献身的な対応は子どもたちに安全と安心を確保することとなり、学校に寄せる信頼感は高まったように見える。しかし一方で、教師にかかる負担の大きさも垣間見ることができた。これらの結果を踏まえると、連絡が通じにくかったり、交通機関が麻痺してしまったりした場合も含めたさまざまな状況を想定して、あらかじめ下校や避難方法の判断基準を定めておくことと、折に触れ、保護者へこれらの情報の周知徹底をはかることが重要であることが示唆される。

 また、あまりに甚大な被害をもたらし、人々にショックを与えた大震災は、これまでの生き方や価値観をも変化させた。保護者たちは子どもたちに、人と人とが支え合うことの大切さを身につけてもらいたいと考えるようになった。子どもたちも子どもなりに支え合いの大切さを感じとり、さまざまな方法で支援活動に移しているようであった。

 ところで私事で恐縮であるが、筆者の経験を記したい。筆者は2011年4月から宮崎県に赴任しているが、東日本大震災当日の3月11日は埼玉県南部の自宅で震度5強の揺れを経験した。突然の衝撃とその後も続いた大きな余震の恐怖に怯え、しばらくは震えが止まらなかった。両親の郷里が福島・宮城であり筆者自身も宮城県で生まれているため、大震災は他人事とは思えず、被害の様子を伝えるテレビの映像からは一晩中目が離せなかった。目を離してはいけない気さえしていた。

 しかし翌日には、4月からの住まいを探すために以前から予定を組んでいた、13日早朝に東京から宮崎に向かうための交通の便を心配し始めた。発災からしばらくは欠航が相次いだため、飛行機は予定通り出発するだろうか、空港に向かう電車は動いているだろうかと気を揉んでいた。その一方で、家族を失ったり、津波で家を流されたりして明日をも知れぬ被災地の方々のことを思うと、自分だけが新しい生活に踏み出そうとしていることに、罪悪感にも似た後ろめたさを感じていた。

 3月13日、電車も飛行機も予定通りに運行し、筆者は宮崎に無事到着することができた。そのとき、一日も早く「日常」を取り戻そうとする人々の心意気と努力に、力強さと頼もしさを感じた。その後、4月に宮崎に転居したのであるが、奇しくも宮崎県は、口蹄疫や鳥インフルエンザで畜産業が次々に大打撃を受け、2011年に入ってからも霧島連山・新燃岳の噴火で被害が出た地域である。「がんばろう宮崎」のスローガンの隣には、大震災の後、「がんばろう日本」のメッセージが掲げられるようになった。そして、口蹄疫や新燃岳の被害の際に全国から受けた支援に恩返ししようと、東日本大震災の被災地を訪れ、直接に支援する動きも出てきた。どこにいても被災地や被災者のことを想い、さまざまな形で支援することができるのだという、復興への努力と人と人との支え合いをこの地でも感じることによって、被災地からも、大震災を経験した首都圏からも遠く離れ、余震に怯えることのない土地に転居した筆者の後ろめたさは、少し薄れてきたように思う。

 今回の大災害は私たちに、自然に対する畏怖と畏敬の念を抱かせ、人々の支え合いが持つ力をあらためて実感させることとなった。これらは私たちが長く忘れかけていたものであったのだろう。それらを思い起こさせられた今、どの地域に住んでいようと大震災の経験から謙虚に学ぶよう心掛けたい。そして、人々の支え合いによってどんな大きな災害をも乗り越えることができるという手応えを忘れずに、日々の生活でも大切にしていきたいものである。